札幌に帰ってきたこうせいです
札幌は夜はもうエアコンがいらないくらい涼しくていいですね
8月は東京に10日間、岐阜に6日間ほどいました。
約半月札幌から離れて、普段会わない友達に会ってました。
中高の時は、一緒に目の前の楽しいことだけを追いかけてわいわいしていた友達ももう24歳になって、みんなそれぞれ人生の深さを経験していました。
まさかこいつと医療制度の話をするなんて、こいつとビジネスの話をするなんてと驚くことも多々ありました。
みんな大学生だった頃には想像もできないことです。
(まあ僕だけまだ大学生なんですけどね笑)
みんなそれぞれ人生の難しさを感じているようでした。
そんな話をする中で強く感じたことは、生きるということは哲学を学ぶということだということ。
哲学に答えはありません。
それと同じように人生にも答えがありません。
「幸せ」という概念を通して少し時間をとって丁寧に考えて、未来の自分のためにここに書き残しておく。
僕らの世代は、「幸せ」の定義が難しくなっている。
結婚すれば幸せなのか、お金を稼げば幸せなのか。
そんな単純なものではない。
僕たちのおじいちゃん、おばあちゃんの世代は戦後のなにもない日本からなにかを生み出す日本を作ってきた。
僕たちのお父さん、お母さんの世代は、高度経済成長の時代を生きてきて、今の物が豊かな時代の礎を築いた。
じゃあ僕らはどうか。
1995年生まれの僕は、物心ついた頃からインターネットがあった。知的欲求があればググれば一発で満たされる。友達と繋がりたければメールや電話、LINEでいつでも繋がれる。食べたいものはスーパーやコンビニに行けばたいてい買える。
そういう時代に生きていて何に幸せを感じるのだろう。
正直僕はまだよくわからない。
でもそんな僕が最近思うのは、幸せは時間軸が無い概念だということ。
どうしたら幸せになれるのだろうかと思ってるうちは幸せになれない気がする。
自分は何をしたら幸せを感じるのかを追求することが最も重要なのではないか。
幸せは、点の幸せの集合体である。
今は、そう思うことが一番自分の思考にフィットしている。
点と点が繋がって線になるイメージだろうか。
幸せであるという状態ではなく、自分が幸せを感じている状態まで因数分解して考えてみる。
瞬間の幸せなら具体的にいくつかイメージはできる。
純粋に好きな人と話している時。
昔の友達とばかなことしたなあって過去を懐かしんでいる時。
刺激的なコミュニティの中で自分を磨いている時。
科学のことを考えている時。
自分の行動の結果、相手が笑顔になっている時。
そんな点をいくつ持つことができるか。
お金の収入源をいくつかもつと人生が豊かになりやすくなるように、幸せの源泉も複数持つことが重要なんだろう。
そして自分がいくつの点を持つことができるかで幸せという「概念」が形成される気がする。
ただ、他者との比較という概念が入ってくるともうひとつ話は難しくなる。
もちろん他者と比較しないことが一番健全なのかもしれない。
でも人である以上それは不可能だと僕は思っている。
人は誰でも無意識に自己と他者を比較してしまう。
さらに、今の時代はネットやSNSによってその比較が容易になった。
どれだけ頑張っても頑張っても、自分より頑張ってるやつはいるし、成果をあげているやつもいる。
自分はその人たちに比べたらまだまだ未熟で努力が足りないと思う。
どこまでもこう思う人ってまじでしんどいんですよね。
僕はその部類の人間。
僕は他者との比較という部分が強い人間です。
あまり心地よく無いなと思うことも多いが、それが自分の根本にあることなので、無理に比較するのはよくないと自分を抑圧するのはやめるようにしました。
もちろんそれが僕の原動力になっている部分もあるので。
自分の中のこの部分とは、もっと丁寧に向き合っていこうと思う。
社会全体として幸せの閾値が上がっていることは非常にいいことだと思う。
ただ、それによって苦しくなっている人が出てきているのも事実かもしれない。
こういうことを書くとまた小難しいことを書いてかっこつけてるなと思われるかもしれない。
でもこの「幸せ」の根本の部分とどれだけ向き合えたか、気づけたかで人生は大きく変わっていくと思っている。