みなさん、こんにちは!
昨日札幌に組織学の再試験を受けに行って、23時間だけ札幌に滞在して、再び東京に戻ってきたこうせいです!
さて、今日は僕の患っている心臓病のことについて書こうと思います
自己紹介の記事にも書きましたが、
(↓よかったら読んでね(笑))
僕は、ファロー四徴症という先天性心疾患を患っています(指定難病215)。
今でも胸に15cm~20cmぐらいの開胸手術の手術痕が残っています。
生後数か月の時と、2歳ぐらいの時の2回開胸手術をしました。
当然覚えていませんが。。。
幼稚園のときも何回か入院した記憶があります。
さらに、小学校2年くらいの時に、カテーテル手術を受け、太ももの付け根から
カテーテルを入れて、バルーンを膨らませて血管を拡張させる手術を受けました。
ということで、人生で3回心臓に関する手術を受けています。
幸い、素晴らしい医師や看護師、薬剤師、検査技師、その他多数の方々に恵まれて運動制限はないまでに回復することができました。
しかし、完治することはなく一生病院に定期的に通院しなければいけませんし、将来もしかしたらもう一度カテーテル手術をしなければいけないかもしれないと言われています。
この経験が、僕の難病をどうにかしたいという想いにダイレクトに繋がっています。
先ほど難病に関する調べものをしていたら、僕の患っている
「ファロー四徴症」
が書いてあったので、少しでも多くの方にこういう病気もあるんだと知ってもらい、同じ疾患を患っている患者さんの力になればと思い、この病気について書くことにしました。
ファロー四徴症とは
「ファロー四徴症」
おそらくほぼ全ての方が初めて聞くでしょう。
それもそのはずです。
似たような症状の疾患を合わせても、日本に約5500人しかいない難病(指定難病215)です。
http://www.nanbyou.or.jp/entry/4742
(難病情報センターより)
外科治療をしなければ、1年生存率は75%、3年生存率は60%、10年生存率は30%といわれているようです。
ファロー四徴症という名前にある通り、1888年にフランス人医師のファローさんが初めて報告しました。
そして、四徴症というのくらいなので4つの症状があります。
- 右心室と左心室の間 の孔(心室中隔欠損)
- 右室~肺動脈の狭小化(肺動脈狭窄)
- 右心室壁の肥厚(右室肥大)
- 本来左心室から出ている大動脈が右心室と左心室の両方にまた がって出ている状態(大動脈騎乗)
症状 (日本小児外科学会HPより引用)
乳幼児期に心雑音あるいはチアノーゼで気付かれることが多い病気です.チアノーゼとは,酸素化の不十分な血液が流れるために皮膚や唇が青紫色になる現象 で,はじめは啼泣時や運動時に限ってみられるますが,次第に安静時にもみられるようになってきます.特徴的な所見として蹲踞(そんきょ:運動時にしゃがみ こんでしまう現象で,座っているほうが立っている姿勢よりも心臓に戻ってくる血流が減少し症状が軽くなるためです)や,太鼓バチ指などがみられるます.チ アノーゼが高度になると酸素化を良くしようとして赤血球数が増加するため血液の粘稠度が増し,血栓症をきたすことがあります.
http://www.jsps.gr.jp/general/disease/cv/6jhe0b
乳幼児期に心雑音やチアノーゼで疾患が疑われることが多いようです。
僕も、小さい時の写真は唇が紫でしたし、今でも健康診断のたびに心雑音と記載されます。
ただ、根治手術後の経過は良好のようです。
しかし、僕がもし親の世代に生まれていたとしたら、もしかしたら亡くなっていたかもしれない
そういった病気です。
手術後の僕
手術で入院していた時の記憶はなんとなくあります。
隣のベッドに入院していた子と一緒にアンパンマンの絵をかいて病室の窓に貼ったりました。
隣の子は今どこで何をしているのかなーなんてたまに思ったりします。
あと、出前の天津飯のタレが大好きでよく母親からちょこっとだけ分けてもらってましたね(笑)
母親の姉がウルトラマンの人形買ってきてくれたり、一緒に人生ゲームをしてくれたり。。。
とにかく、家族、親戚みんなで僕のことを支えてくれました。
小学校の頃は、開胸手術のため、胸骨がかなり前方に突き出していました。
それこそ、水泳の授業の時は、割と目立ちましたね。
ただ僕があまり気にしない性格でしたし、友達もいじめるような子はいなくて優しい友達に恵まれたため普通に過ごしていました。
中学校の時も普通に野球をしていました。
ただ、高校野球までできたのはドクターもちょっとびっくりだったようです(笑)
僕が、高3ぐらいの時にそれまでずっと診てくれていた主治医の松島先生という方が定年退職されました。
かなり人気のある先生だったようで、午前9時ころに病院入りしても、診察を受けれるのは午後8時ころということもありました。
でも、朝から晩まで外来で疲れているだろうに、先生はいつも変わらない笑顔で僕を迎えてくれました。
今思えば、もし臨床医として働くなら目指す理想像は松島先生だなと思います。
本当にありがとうございました。
23歳になった今は、2年に一度の通院になるまでに回復しました。
小学校で2,3カ月に一度、中学校で半年に一度、高校で一年に一度、大学で二年に一度の通院頻度でした。
とにかく、支えてくれた医療関係者の方や特に家族には本当に感謝したいです。
僕の命は僕だけのものではないことを強く感じます。
そして、ここまで回復させてもらったからには、僕の手で社会をよりよくしたいし、その使命があると思っています。
これらの事実が僕を突き動かす原動力です
ファロー四徴症を患っている患者さんとそのご家族へ
僕がこんなことをことを書くことはおこがましいことかもしれませんが、この病気を患っていても、将来は普通の子と同じように甲子園を目指して野球もできますし、医師、研究者を夢見て生きていくこともできます。
いくら手術後の予後が良いといっても患者さんとそのご家族や関係者の方はかなりの不安を感じていると思います。
僕や僕の家族がそうだったように。
患者さんとそのご家族や関係者の方がどれくらい僕のことを知ってくれているか、このブログを読んでくれているかわかりませんが、
元気に頑張っているこうせいという存在を知って、少しでも前向きにこのファロー四徴症と闘う力になってくれれば幸いです。
僕にできることがあれば、いつでもご連絡お待ちしていおります
すこし長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。